2007年の秀逸な記事 2

2007年の秀逸な記事 1はこちらで読めます。自宅のネット徘徊で発見した記事です。
http://d.hatena.ne.jp/sadac/20071201/1196513741

今度は会社で仕事中にネットしてScrapBookにかけたページをご紹介。
2006年の記事も多少含まれますがまあ許して。

結婚する前に確かめておくべき15の質問
http://www.popxpop.com/archives/2006/12/15.html

「結婚する前にお互いが確かめ合っておくべき15の質問」というNYタイムズの記事をご紹介。

1.子供を産むかどうかを話し合いましたか?産む場合は、育児に関してどちらが主に担当しますか?

2.金銭面での取決めや将来の計画、支出と貯金などの考え方について理解しあっていますか?

3.家事はどのようにするかを話し合いましたか?日常の雑事に関してはどちらが取り組むことになっていますか?

親が子どもにストレスをかけること
http://d.hatena.ne.jp/azumy/20070411/1176261840

上の娘は、そろそろ欲が出てきたらしい。ヤマハ音楽教室に通っているのだが、幼児科1年目の終わりに差しかかり、弾く曲の難易度がだんだんあがってきた。(中略)レッスンでうまく弾けなかったりするのだけど、そういう時に涙ぐむようになったのだ。これまでは、間違えても大して気にしなかったのに。
(中略)
子どもにとって、ストレスはあるべきか、それともストレスは避けるべきか。
(中略)
親は、大好きな子どもたちに、あちこちの場面であえて嫌な思いをさせる役割でもあり、そういう役割を担うことを要求されているということでもあるわけだ。

豊かな時代の教育とは:「こいつらにはやっぱかなわねー」と思うこと
http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070606/1181096157

今日も今日とて、息子の学校での「対策会議」に行ってきた。ウチの子の学校は、アメリカの中では「レベルが低い」と言われるカリフォルニア州の、お金持ちでもない小さい学区のフツーの公立校。それでも、いつも対策会議のたびに、そのノウハウや仕組みにいちいち感心してしまう。
(中略)
本当に、涙が出そうになってしまう。3年前に対策会議の対象に指名されたときは、どうしようかと思った。フラストレーションがひどくて授業中に問題行動を起こしたり、家でもずいぶんキレて荒れていた。それが、ここまで来られた。(中略)こうしてちゃんと対策をとるようになってから、「ボクはバカなんじゃない。これさえ克服すればいいんだ。」と自信も持てるようになり、人が変わったように明るくなり、意義がわかっているから、セラピーにも積極的に取り組んでいる。
一方、もし私たちが日本にいたら、と思うとぞっとする。(略)
先生「お宅のお子さんは、本当はとっても頭がよさそうなんですが、書くのが苦手で困ります。もっときれいに字を書けるよう、ご家庭で指導してくださいね、お母さん。」
私「え、どうやって?何を?いつ?・・・」

Who is to blame?
http://blog.tatsuru.com/2007/06/08_1023.php

社保庁問題がメディアを賑わせている。
(略)ここまで問題を深刻にしたのは歴代の社保庁の役人たちのメンタリティの問題だろう。
そして、そのメンタリティは悲しいかな程度の差はあれ私たちの社会の全域に瀰漫しつつある。
それは「前任者の不始末をなんで私が尻ぬぐいしなくちゃいけないんだ」という不満に「理あり」とする態度である。
「この不祥事の責任を問う」という言葉は勇ましいし、合理的に聞こえるけれど、実際には責任の淵源を探ってゆくと、最後に発見されるのは、誰でもやるようなわずかな事実誤認や見落としだけである。
(中略)
システムをクラッシュさせた責任は、「起源」にはない。
システムをクラッシュさせた責任は「誰に責任があるのだ」と声を荒げる人間たちだけがいて、「それは私の責任です」という人間がひとりもいないようなシステムを構築したこと自体のうちにある。

南大阪八尾市のロークとドミニク
http://www.aynrand2001japan.com/akira/akira20060126.html

ちょっと脱線させていただきますが、私が担当している「児童文学」っていうクラスの話をします。このクラスで、秋学期に19世紀アメリカの少女小説の古典であるルイザ・メイ・オルコット作Little Women(『若草物語』)読んだときに、「心優しい献身的なベスが死んで、ジョーが苦労してお金を稼いでいるのに、わがまま勝手で要領がいいエイミーが金持ちと結婚するのは許せません。作者は、どうしてこういう結末にしたんでしょうか」と、少なくない学生がコメント・ペーパーに書いていた。
わかんないかなあ。そこが、わかんないと駄目だって。(略)小説の登場人物に嫉妬している暇があったら、サッサと美容整形手術受けて、金持っている男がいっぱいいるようなスポーツ・ジムとかゴルフ場の受付とかのバイトしないといけないって。コンビニで貧乏な男の子に添加物ばっかりの弁当を笑顔で売っていてもしかたないって。ストーカーされたら、どうするんだ。貧乏な男の子相手じゃ、損害賠償も取れないよ。
(中略)
私は教師やってきたから、たくさんの女の子を見てきたけれども、「絶対に医者と結婚する!」という固い決意で、医者とだけ合コン&お見合いを重ねていた子は、美人でなくてもスタイルよくなくても医者と結婚したよ。結婚相手の医者がろくでもなく幼稚な奴で、そいつの父親が権威主義の威張り腐った奴で、そいつの母親が極度のお節介で、意味なく丈夫で長生き確実で、ついでにそいつの祖父母まで、しっかりまだ生きていても、舅&姑&大姑&大舅どもと邸宅で同居が条件でも、ひるまなかった猛者もいたよ。なかなか、あっぱれである。あの根性は見上げたものである。私のような気の弱い小心な人間には「想定外」の壮絶で華麗なる人生であるよ。それに果敢に挑戦した彼女はすごい。その結婚の結果とか内実なんか、どうでもいいわけよ。そんなこと他人が、どうのこうのと論評することない。彼女がそれを望み、その実現に具体的に動き、それを成就させたってことが、えらいのだ。まずは、初めに欲望ありきよ。

努力すれば報われる」とは、希望ではなく酸素である
http://www.aynrand2001japan.com/akira/akira20050119.html

横暴なつまんない男なんか相手にしないもん、というのはフェミニズムの成果。リスクのある人間関係を引き受けて苦労するのはかなわんわ、結婚したら家事だの育児だの介護だの女の方に負担がかかるのは目に見えているんだから、ならば結婚しない方がいい・・・というのは、勇気の欠如というか蛮勇の欠如というか、好奇心の欠如というか、冒険心の欠如というか、博打精神の欠如というか、駄目でもともと精神の欠如というか、つまりはケチなんだよね。自分が持っているものに執着して、少しでも無くすのが怖くて、ひたすら守りにはいっているというケチ。中途半端に何か持っていると、こういうことになるのかな。
たとえば、結婚って相手のいることだから、はっきり言って自分の努力では何ともならない。亭主が努力したって、馬鹿な女房が賢くなることはない。女房がいくら頑張っても、駄目な亭主は駄目。賢くてハンサムで人柄がいい亭主は早死にするかもしれない。料理の上手な優しい奥さんは鬱病になるかもしれない。ほんと、運だけだよね。つまり、駄目でもともとの「博打精神」がないならば、結婚なんかできない。5つ試して、ひとつあたったら「大当たり!」とする「博打精神」よ。人間関係に関しては、「安全確実元金保証の投資精神」では構築できません。「パラサイト・シングル&引きこもり」なんて、単に臆病で気が小さくて自分の人生を信用していなくて、かつ怠惰でズルイだけのこと。リスクを受け入れられないならば、人間関係なんか持てないよ。全部はずれるってことはないって。ティッシュペーパーぐらいはあたるって。もともと他人というのは、親兄弟含めてみんな100パーセント全員リスクです。リスクには、チャンスの意味もあるもんね。
(中略)
まあ、私がぶっちゃけて言いたいこととは、負け組みにとっては、「努力すれば報われる」とは、「見込み」とか「希望」とかいう類のことではない、ということなのであります。「心に抱くことができる」といった可能性の問題ではない、のであります。そんな甘いものじゃない。そんな余裕のあるようなものじゃない。負け組みにとっては、なければ死ぬしかない酸素みたいなものなのですよ、「努力すれば報われる」という思い込みは。
だって、負け組みの人間は、「努力すれば報われる」という思い込みがなければ、努力するのをやめて滅びていくしかないのだからさ。負け組みが生きていくためには、「努力すれば報われる」という思い込みを持つことしか、他に選択肢はないわけです。余裕のある連中はさ、努力するのをやめても、食べていけるし、引きこもりもできるだろうし、パラサイトもできるだろうけども、負け組みにはもともとその種の「寄生可能個人資産」がないのだからさ。
そんな思い込みは、狂気すれすれの「信仰」だって?そうですよ。なんか悪い?狂気だろうが、信仰だろうが、それ以外に選択肢はないのだから、それで生きていくしかないでしょ?そういう心的態度を、「太平洋戦争のときの神風を信じる気持ちと同じで、宗教で・・・」なんて国立大学の先生が論評するのは、御説ごもっともだけれども、「個人的対処するための公的支援」なんてあてにしていられない「負け組み」にとっては、そんな御説は何の役にもたたない。嘲笑されようが、批判されようが、短絡的だろうが、視野狭窄だろうが、それしか選択肢がないの!「警世の評論家」なんか、やっている暇はないの!

我々団の活動イメージ
http://www.warewaredan.com/contents/warewaredan_join.html

一体君は、何を学習しなければならないのか?
端的に言えば、歴史、とくに現代史である。
我々団のメンバーは、歴史認識をおおまかに共有することによって互いに結び付く。
そもそも現代の消費資本主義、大衆民主主義の中でバラバラにされてしまった諸個人を再び結びつけるのは何らかの物語でしかあり得ず、物語とは常に歴史観のことだからである。
(中略)
現在がどのような時代で、近い過去から近い未来へ向けて、歴史はどのように進もうとしているか、我々団のメンバーがおおまかに共有すべき歴史観については、外山が提示する。
しかし、外山の歴史観をただ鵜呑みにするだけでは、本当にその歴史観に納得したとは言えないし、またそれに基づく我々団の運動にも確信が持てないはずである。
リストを消化し終えた時、君は我々団の運動に確信を持つ。
もともと人間の生に意味などない。人間は単に生物として、生まれて、食って寝て排泄して、やがて死んでゆくだけだからである。しかし、分かっていながらそれでも生に意味を求めずにはおれないというのもまた、観念というやっかいな荷物を抱えてしまった人間という欠陥動物の宿命である。そして生の意味などというものは、結局、社会構造という空間軸における自分の位置、歴史という時間軸における自分の位置を把握して、両者における自分の「役割」のようなものを主体的に決定する他に生まれてこようはずがないのである。その「決定」のためには、まず社会構造や歴史について、努力して学習する他はない。
ただ漫然と知識を詰め込んでいっても、独自の歴史観・社会観を獲得するにはよほどの才能が必要で、はっきり言ってほとんどの人にはそれは不可能である。だから、我々団においては外山が大ざっぱな指針を与える。結果として、君は他の我々団メンバーたちと、歴史認識を大ざっぱに共有することになる。
共有は、大ざっぱでいいのである。細かいところまで大勢が認識を共有するのは無理である。大ざっぱな共有であっても、それが実現すればもはや君は孤独ではないし、君の生には意味があるという確信をその時点ですでに君は獲得しているはずである。

異性をほぼ確実に落とす方法
http://finalf12.blog82.fc2.com/blog-entry-511.html

心理学のネタに取ってた恋愛系のメルマガに
もの凄いこと書いてましたw

どうやって落とすのかと言えば、感情体積を大きくすること。

感情というのは、板みたいなもので、あっちに押しやり、
こっちに引き寄せ、これを連続していると、
あっという間に体積が大きくできる。

その体積を大きくするっていう行動をしていけば、
いつの間にか落ちてしまう・・・そんなものなんだ。

何を言ってるのかというと
「いい人」ってのは女の子からみて30点ぐらい。
これが「すごくいい人」に成長すると60点。
30点の得点アップとなる。

で「いい人」が、女の子のミスや欠点をビシッと叱る。
図星なほど相手は傷つく。
もしくは、女の子に嫌われてもいいから自分のしっかりとした意見を通す。
すると嫌われて−50点ぐらいになる。
その後、きちんと相手のことを考えてフォローを入れる。
謝ったり、影で相手のこともささえたりする。
このときは「すごくいい人」として60点の評価がもらえる。
実はこのときの差分は110点の評価。
同じ「すごくいい人」でも揺り幅を増やすととんでもないことになる。
(中略)
これは、恋愛でなくむしろ人間関係のコミュニケーションに使えるテクニックです。
というのは、ほとんどの人が会社とか学校とか周りを気にして自分を押し殺してます。
しかしこれは、「いい人」が周りに嫌われないようとする心理そのもの。
(中略)

言っちゃっていいんです。
自分の主張をはっきり言いましょう。
嫌われても大丈夫。
後で自分なりにきっちりフォローすればいいんです。

むしろ嫌われたほうがフォローや仕事の頑張りの結果が評価されます。
差分がでかいですから。
つまり、最終的に相手の事をきちんと思いやって行動できるなら
途中経過はむしろ嫌われるぐらい我を通していい。
しっかり自己主張した後、あとでごめんなさいです。
後で仕事のフォローをしたらいいんです。

高学歴女性の未婚問題
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20070619/p1

もう二回も紹介したPDFだけど、これの統計みて、基本的に、日本の男女は、世界のほぼすべての文化圏で共通する特徴である、

「女性は男性の社会的地位や財産で結婚相手を決める」
「男性は女性の美しさと年齢で結婚相手を決める」

というのが、日本でも生きているというのが、はっきりと確認できたのね。(略)このルールに従って、婚姻市場が運営された場合、以下のようなことが起こる。
●結果として、18〜25才以下の婚姻市場では何が起こっているか?
この年齢層では女性が有利になる。
(中略)
●結果として、25〜30才以下の婚姻市場では何が起こっているか?
ここは、男女が対等になる時期と言える。
(中略)
●結果として、30才〜以下の婚姻市場では何が起こっているか?
そして、30歳以上になった男女の問題になるのだが、ここからが面白い話になる。

CS minded teacher
http://blog.tatsuru.com/2007/06/21_1049.php

CSってご存じですか?
Customer Satisfaction
「消費者の満足」のことである。
これをCS本は「顧客第一主義」とか「顧客中心主義」というふうに訳している。
それは違うだろうという話から始める。
(中略)
「顧客のニーズ」がもし定量的・定性的に把握できるものであって、それにどんぴしゃでジャストフィットするサービスなり商品なりを提供できたら、それで100%ハッピーで生産的な取り引きが成立するというふうにもし考えているひとがいたら、それはビジネスマンとしては幼稚園児レベルである。
「顧客のニーズ」なんか、あらかじめ存在するものではないからだ。
(中略)
ニーズはそれを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものである。
大学院では「子どもたちの学びへの動機づけ」が主題であった。
「学ぶことへのニーズ」である。
もちろん、そんなものは自然現象として子どもたちの中には存在しない。
(中略)
だが、どうやって気付かせるのか。
(中略)
「学ぶことに対する欲求」は「学ぶことへの欲求」を現に生きている教師からしか学ぶことができない。
もし、子どもたちに学びを動機づけたいと望むのなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。
教師自身がつねにいきいきと好奇心にあふれ、さまざまな謎に惹きつけられ、絶えず仮説の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。
それが教育を成立させるための条件である。
もちろん、世の中にはそうではない教師もたくさんいる。
けれども、だからといって少しも心配するには及ばない。

ペンもノートも持ってこない学生の指導法:補足など
http://deztec.jp/design/07/07/18_education.html

人には心がありますよ。貸した鉛筆の芯がポキッと折れてしまうと、「ああっ」と悲壮な顔をする。自分で削った鉛筆で、そんな顔はしない。借りた鉛筆だから、私がどれだけ熱心に削っているかを知っているから、そういう顔をする。ふだんはまともに礼のひとつもいわない生徒にだって、そういう感情がある。
「折っちゃったか。しょうがないなあ」とかいって、もう一本貸してあげたらいい。三度か四度、芯を折ったら、ていねいな落ち着いた運筆ができるようになってくる。「来週はちゃんと持ってきましょうね」教室でそういい続けるうち、忘れ物も、少しずつだけど減ってくる。
小中学生も大学生も同じだと思う。叱りつけなくても、次第に忘れ物は減るはずです。万が一減らなくても、ペンを貸したことで学生はノートを取ることができ、漫然と話を聞くよりも多くのことを頭にインプットできたろう。それでいいではありませんか。
(中略)
余計な一言、というのはありまして。貸した鉛筆の芯を折ってしまい顔を歪めた子どもに「気にしなくていいよ」なんていっちゃあいけない。

はてな匿名ダイアリー > anond:20070818203448
http://anond.hatelabo.jp/20070818203448

●旧来型の貧乏
・自分が住んでいる地域とか、血縁とか、性別なんかで貧乏かどうかが決まっちゃう貧乏。
生まれたときから親兄弟親戚近所一同皆負けてます、みたいなもの。

●新しい貧乏
・『中流家庭』に育ったはずなのに、ある日突然貧乏。またはいつのまにか貧乏。
生まれたときは一応中流(中の上、中の中、中の下)だったけど、いつの間にか自分ひとり負けてましたもう這い上がれません、みたいなもの。
(中略)
昔は伝統や世間体を理由にして嫌でも家族と付き合う、っていう前提があった(その代わり家族の中でどんなドロドロが起こっているかわからない。(略))
そういう前提が日本が消費社会化するにつれて変った。まず、日本の住宅に団地というものが登場して、核家族が爆発的に増えた。核家族っていうのは1970年代のアメリカンホームドラマを模倣したもの。家電製品に囲まれた消費社会的な家族の始まり。そこから消費社会的な自由が進行して、お父さん仕事とオタク趣味、お母さんも仕事と女友達とお買い物、子供はモバゲーで皆バラバラな家族の出来上がり。一人に一台携帯電話持ってるから話したい人と話せる一方で、話したくない人とは絶対に話さないということも出来る。最近の家族はLDKの持ち家やマンションに一人一室の個室を割り振られて住んでるし。昔ながらの障子や襖で仕切られているだけのプライバシーの無い部屋なんてありえない。だから皆付き合いたくない人とは絶対に付き合わない。付き合っても嫌なものは見ない。というか無関心。でも、おばあちゃん、おじいちゃんはどこ行った?親に事情のある子供だって、昔は親戚に養子に出されたのに今は施設直行。
そんな人付き合いの伝統や義務が無くなって人間関係が流動化した時代に、一旦自信の無さの塊になって、人付き合いに自信がなくなるとあっという間に孤立。行政はお金が無く、制度は家族の相互扶助の前提を崩そうとしないのに、「家族が嫌いでも、それでもやっぱり家族なのだから支えあうのは当たり前」という大義名分を主張することが、消費社会的な自由を阻害しているということを皆直感的にわかっているから中々主張できない。そして地縁、血縁、義理や情などで、面倒くさいんだけど義務的に構ってくれる人はどんどん少なくなり、他人の無関心に囲まれて消えるように自殺する。

グーグルが起こす第二の革命
http://d.hatena.ne.jp/essa/20070903/p1

企業という組織に何の意味があるかと言えば、会社の中で運営すればブログのコメントやWiki掲示板から「荒らし」を排除しやすいことだ。それはとても重要なことで、「荒らし」さえいなければ、ブログやWiki掲示板はとても効率的に機能する。それはとても重要なことだけど、企業という組織形態に何の意味があるかと言えば、それのみになる。

finalventの日記
2007-09-11のコメント
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070911

ziom 2007/09/11 11:44 私のモットー
[恋愛]グループ交際できるうちに目星をつけておくこと。第三者のフィードバックがない恋愛は虚構が一人歩きする。→悲劇的結末を引きずる。
[買×]一人で駅前の安全な店を開拓すること。集団行動は危険。集団では個人の持つ危機察知本能が鈍り、回避できない状況になる。

この夏最後の出稼ぎツアー
http://blog.tatsuru.com/2007/09/21_1501.php

「やりがいのある仕事」を求めて短期間に離職・転職を繰り返す若者が増えている。(略)
だが、「やりがいのある仕事」とは何のことなのか。
この語の語義について、国民的合意は存在するのだろうか。私は違うと思う。そして、同一語を別の意味に使っていることが、事態を混乱させているのではないかと思っている。
ある年代から上にとって、「やりがいのある仕事」というのは、「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味している。おのれ労苦の「受益者」がどこかにおり、その笑顔や感謝を想像することが労働のモチベーションを担保する。それが「やりがい」という語の意味だったはずである。
だが、この定義は若い世代にはもう適用できない。というのは、今ではどうやら個人の努力がもたらす利得を「私ひとり」が排他的に占有できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と呼ぶ習慣が定着しているようだからである。
「受益者が私ひとり」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ不思議な労働観が生まれたのにはもちろん理由がある。

確率ビジネス
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070922

こういうギャンブルがあったら、みんな参加する?

ある夫婦の次に生まれる子供の性別を当てる。参加料は5000円。オッズは3倍。つまり、性別を当てたら15000円もらえるので合計はプラス10000円。外したらマイナス5000円。(死産や双生児はノーカウント)。

私なら参加する。大まかにいって男女比は1:1。オッズが2倍以上であれば、新生児の性別を当てるギャンブルの期待値はプラスになる。胴元が損するだけなので、実際はこのようなギャンブルは存在しない。しかし、うまいことやれば、多くの夫婦を相手に同等のギャンブルを行うことができる。

親族の基本構造
http://blog.tatsuru.com/2007/11/07_1253.php

これらの事例からレヴィ=ストロースはこの二対の親族関係が次のようなルールで律されていることを発見する。
「この構造は二つの相関的な対立関係で結ばれた四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)から出来ている。その結果、二世代のそれぞれにおいて、一つのポジティヴな関係と一つのネガティヴな関係が存在することになる。この構造は何か?この構造の存在理由は何か?答えは次のようなものである。この構造は考え得る限り、存在しうる限りもっともシンプルな親族構造である。これがまさしく親族の原基(l’element de parante)なのである。」
(中略)
親族の存在理由は親族を存続させることであり、四項から成る基本構造は親族のダイナミズムを担保するための必要最低限のかたちである。
(中略)
つねづね申し上げている通り、国家や貨幣や威信やなどというものはすべて男が作り上げた幻想であって、このようなものに生物学的には鐚一文の価値もないのである。
現にまともな女性はそういうものにぜんぜん価値がないことを知っているので、定期預金の残高を眺めたり、パソコンのディスプレイに見入っている男に向かって「ねえ、私と仕事とどっちが大事なの?」と訊くのである。
むろん、その場合に「仕事」などと答えた男は再生産の機会から永遠に排除されることになる。
(中略)
レヴィ=ストロースが言っていないことでたいせつなことが一つある。
それは子どもには先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。
これは男女ともに変わらないと私は思う。
成熟のロールモデルというのは単独者によっては担われることができない。
タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。

IBMマイクロソフト、そしてグーグルに至る道程
http://blogpal.seesaa.net/article/38316123.html

ちと、自分用のメモとして、IBMマイクロソフト、そしてグーグルの現在にいたるまでのソフトとかハードとか企業の歴史について、簡単なロードマップを作ってみることにした。

情報サービス産業の神話と展望
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20071212/its

多くのユーザー企業が要件定義からSIベンダに丸投げするのは、きっちり要件定義できる人材を内部で抱えておらず、中途で採ろうにも魅力的なキャリアパスを用意することが難しいからだ。多くのSIベンダが重層的な下請け構造に頼るのは、案件には繁閑期があるのに雇った従業員は切れないせいでもある。重層的な下請け構造はトヨタも一緒だがトヨタの自動車は世界中で売れているし、本当に問題なのか。
製造業では大きな問題にならなかった重層的な下請け構造が情報サービス産業で問題となるのは、製造業の下請け構造が部品納入という製品事業であるのに対し、情報サービス産業の下請け構造が役務提供であることだ。部品納入企業の生産性が向上すると差額分は内部留保となり再投資にまわるが、ソフトウェア開発の生産性を高めても水増し請求するのでない限り中長期的に利益率は悪化してリスクが増大する。
製造業の下請けでは生産性向上に投資した企業が継続的なレントを期待できるが、情報サービス産業では生産性向上によるレントが一瞬しか発生しない割に工数見積もりの精度が悪化するなどリスクが大きい。その結果、新技術の研究や従業員の教育に投資するより、販管費を抑え、マージンを増やし、技術者の稼働率を高めた方が経営戦略として合理的な場合が多いのではないか。

反売買春系フェミニスト団体を見学して感心したこと
http://macska.org/article/208

しかしわたしが一番感心したのは、そういう大きなことではなかった。わたしの知り合いの女性で、夫に言われて(ラップミュージシャンを目指している夫が機材を揃えたりするために)売春させられている人がいるのだけれど、彼女が最近売春を拒否するようになったところ、夫に殴られて大怪我をさせられたあげく家を追い出された。仕方がなくアパートを探しているのだけれども、何年も前の公共料金が滞納になっているために入居を断られ、友人の家に泊めてもらっている。そういった件について簡単に弁護士に話し、来週できたら彼女を連れてきます、と言ったら、団体の情報が書かれているビラと一緒に、ギフト用紙に包まれた小さなパッケージを渡された。中身は4個入りの箱入りチョコレートで、市内の有名チョコレート専門店のものだ。「これを、彼女に渡してください」と。
たかがチョコレートだけれども、「こういう団体があるよ」とビラだけ渡されるのに比べて、相手に伝わる気持ちが全然違うように思った。いくら専門店のチョコレートと言っても4個しか入っていない小さな箱で、値段としてはそれほど高くはない。同じお金をビラだけに使えば100人に渡すだけのビラを印刷できるかもしれないけれども、その100人の誰一人としてチョコレートをもらった人ほどに「自分のことを思ってくれている、大切にしてくれている」と感じることはないだろう。わたしから「こういう知り合いがいる」と聞かされただけで、さっと「彼女に渡してください」とチョコレートの箱を出してきたその弁護士のセンスには、とても感心させられた。

日本パッシングの件
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/12/post_0242.html

日本という国の社会の知恵は、国際的に重要な問題が起きているときに限って、国民がその問題の本質を直視しなくてすむような注目されるべき別の国内問題が発生して盛り上がることにあります。振り返ればいくらでもあるでしょう。
それが”戦後”であり、”平成”なんですよ。そういうノウハウを培ってきたんです、我が国は。二度と戦争に巻き込まれないようにするために。何か起きそうなときに、別の重大な関心事、芸能でも年金でも大連立でも埋蔵金でも何でもいいや、まあそういうのをうまく作り上げるんですよ。誰がそんなことしたかっていったって、個別にはあるかもしれませんがね、全体としては分かりっこないです。だいたい国民におしなべてヒヤリングして、”サブプライム”を知っている、ある程度語れる人なんてどれだけいますか。キチガイがスポーツクラブで銃乱射したことのほうがよほど知られてます。

あーあ・・・・
http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/45906d3b805e1c1fcc1802a8ff889e80

この国の国民は本当にわかってるのかしら、と思う事が最近たくさんあります。基本的に人間の幸せは政府に如何に介入されずに自由に暮らすかにある。その分できるだけ政府機能を小さくして役人も減らし、税金も減らす。それこそが小さな政府ということですね。
(中略)
確かに食品の偽装問題や、賞味期限のごまかしは許されることではないでしょう。しかし、なぜ賞味期限ごときを政府頼りにしなければならないのか。この問題で騒ぎすぎることで、遂に政府は「生活安全プロジェクト」をつくるというではないですか。これにも税金が投入されるんですよ。また新たな役人の職場ができて担当省から天下りの役人が来て、ブラインドで1億の退職金を取っていく。
この国の国民はほんとに楽勝だ、と政治家も役人も思っているに違いありません。だって、目、鼻、口、舌を駆使すれば、腐っていたらだれでも食べないでしょ? 自分で判断して大丈夫だと思えば食べればいい。間違ってそれで腹を壊したって、数日で治るって。
それと引き換えにまたまた政府を肥大化させるのは、それを騒ぐ国民がいるからに他なりません。

任天堂岩田社長の言葉を読んで
http://d.hatena.ne.jp/kurimax/20071218/1197989198

今週の日経ビジネスから。「商品はユニークだけど古い経営スタイルで、人事制度も能力主義成果主義じゃないそうですが」という問いに対しての岩田社長の言葉。

新しいことは、どんどんやっていますよ。組織のあり方だったり、評価の方法だったり。変えていないわけじゃない。
ですが、個人を業績で評価するという方向では全然ない。だって会社って、大半の人は仕事を選べないんですよ。仕事を選べない人を相手に、結果で責任を取らせてどうするのよって思いますから。
あの、やっぱり外から見ると任天堂は変な会社なんでしょうか(笑)。

迷ったら狩野さん!...狩野分析法による優先度付け
http://d.hatena.ne.jp/masayang/20071213/1197534511

Agile開発では「優先度順に要件(フィーチャ)を開発していく」のが基本だが、いざ優先度をつけようにも話は簡単ではない。発注側に強力な指導者がいてその人が独裁的に優先度を決めてくれるというのは理想的ではあるが、その指導者の能力がイマイチな場合にはリスクが増大する。
大抵は利害関係者間の調整で物事が決められることになるが、これも時間がかかる話でありAgile的ではない。変に決着をつけると、後々人間関係で尾を引くという問題もある。
かといって、「必要なものに○をつけてください」などとアンケートをとっても、全部に○がつくのがオチであろう。
狩野分析法は、優先順位がうまく付けられないときに有効な手法である。客観的なので、利害関係者も納得いきやすい。

JASRACへの信託話
http://ruriko.denpa.org/200712c.html#2101

みっくみくな話題。あー、カラオケでお金を徴収しようとおもったら、 JASRAC 登録するしかないんだよねー。でもって、JASRAC は、カラオケを信託する場合は、演奏権または録音権も信託しないといけないから、結局がんじがらめにという罠。
……と、 昔しらべてしょんぼりした ことを思い出しつつ、ちょっと調べてたら、 E-licenseが、 今年の4月からカラオケの信託を受け付けてるのに気づきました。
なんとー。これはかなり重要なことで、広めるべき話かなと。

ブータン王国に学ぶリーダーシップの形
http://www.rieti.go.jp/users/nishimizu-mieko/glc/004.html

歴史的に見て世にも不思議なことが起きたのが、第三世の時代でした。現国王(公式には雷龍王四世)が、その父君の遺志を引き継いで民主主義への学習の道をひたすら歩み、今や完成の時に至っているのが1907年以来のブータンの政治史です。
(中略)
国王がいろいろな言葉でおっしゃることは、権力にこだわるなということです。指導者として成功したいのならば、自ら進んで権カを放棄せよ。指導者の成功とは、自分がリーダーとして必要なくなる時である。それを目指して、権力には絶対にこだわるなといつもおっしゃる方です。
(中略)
歴史的に見て、民主主義はたいてい民が悪い権力者から奪い取るものです。そのプロセスで戦争や動乱があったり、または戦争に負けてどこかの国から民主主義を頂いたり、というのが世界史の常です。ブータンの場合はまったく逆さまなのです。絶対権力を持つ国王が、「王制は国のためにならない、国づくりは民がするべきだ」と、国民を説得し続ける。
(中略)
実際、国王と国民の対話の場には、いろいろな村のおじいさん、おばあさん、それから憲法の批評会議では小中学校の児童・生徒の代表や、高等学校の学生の代表も参加したのですが、国王の前で一章ずつ、一条ずつ吟味しながら正々堂々と反対なり批判なりをするのです。
そういう姿を見ていて、この国には権力者が恐れるべきことは起こりにくいという印象を持ちました。
(中略)
定年制度の議論の時はすごかった。喧々囂々の反対があり、国王陛下がそんなことを言うのは無責任だ、と小学校の児童が言うわけです。その時に国王陛下はどう国民を納得させたかといいますと、自分の身になって考えてくれとおっしゃいました。16歳の時に父をなくして、自分は悲しみのどん底にあったが、その時に新しい王の即位という、国にとっては喜ばしいことも経験しなければならなかった。涙を飲んでの即位のお祭りごとは、誰にもさせたくないとおっしゃったのです。