子供が幸せであるということ

子供は自由な時間と場所がたっぷりあれば、とりあえず幸せである。

学ぶという本能を持ち、社会という基盤の中で、自らがどう生きるべきかを学習し、生きている。

そのように見える。

親は、子どもの将来を考える。不安だからだ。なぜ不安かというと、子どもを信じていないからだ。

子どもを過去の自分と重ね合わせる。親は、苦労してきている。なぜなら、不完全な人間だからだ。そして、こう考える。もしあのとき、もう少しだけ何かがあったならば、もっと輝く青春が送れたのではないか…?

そう考えて、何かを与える。何もかもを。それは愛という名の虐待でもある。多かれ少なかれ、そうである。

子どもは本来親の臓器であった。ゆえに、(人工/自然)中絶が正当化されるし、かけたコストの大きさが、愛を正当化する。親は子どもが自由に火や水や電気を扱い、焼死・溺死・感電死する自由を許さない。

しかし一方で、子どもは独立した個人である。その個性の萌芽は、おそらく、生まれた瞬間から起きているのだろうが、一般には感情を表出させる時期より、個人としての主張をはじめる。しかし我々は、長くとも18歳まで(一部30歳まで)は、彼らに個人としての権利、すなわち、愚行権を与えない。

親は子どもに命と食料の大切さを教えつつ、冷蔵庫の奥で食べ物を腐らせる。挨拶の大切さを教えながら、不審者アラームを持たせる。自由の大切さを教えながら、子どもをパートタイムの監獄に詰め込む。人類の平等を説きながら、テストで上位2割に入ることを望む…

子どもは矛盾した、不完全な大人の存在を学び、そしてそういう大人になっていく。自由意志。合理性、そして人権。そういった理想が上滑りする世の中で、必死に藻掻いて、次世代に繋げることができたり、出来なかったりする。

自由意志・合理性・人権は、訓練が必要である。言葉で身につくものではない。

ウォーターフォールの開発のアンチテーゼとしてアジャイルが生まれた。アジャイルは、開発をする行為ではなく、訓練の結果、開発ができる人間であるという状態だと定めた。訓練とは、権威や権力という、意思決定を歪めるヒューリスティックを否定する訓練であり、それらの圧力の結果、鈍った感受性を取り戻す訓練である。

人間は元来、サトラレであった。複数の人間における、脳と体が直結した状態、ひとつの生命体として、目的を果たす群れであった。そうしなければ生き残れなかったからだ。だが、果実を食べ始めてからは、我々は数と分業という暴力を覚えた。それは今も続いている…。

その究極の形が、貨幣だ。我々は貨幣という匿名の信用を交換することで、人間性の交換を省略し、果てへと到達できる。そこに本当の幸せはないとしても、不安が無い日々を永らえさせることはできる。本物の美食は味わえなくとも、セントラルキッチンの料理で生き続けることが出来るように。

自由意志・合理性・人権は、訓練が必要である。家庭、隣近所、行政区画、地域共同体、国家、超国家と、フラクタル自治が発揮できなければならない。自治とはすなわち、人間の感受性を信じるということである。数字を超えたものがあると信じることである。

直接民主制による、訓練が必要である。感受性に年齢は関係ない。我々は差別主義者であるから、効率の名のもとに、時間を節約する名のもとに、子どもの権利を奪っている。権利とはすなわち時間である。

自分が子供の頃奪われてきたのと同じように、大人になってから、知恵を与えるという名のもとに時間を奪っている。そして、感受性を疲弊させている。感受性を疲弊させることで、我々は機械と同調して、まるで恐竜の神経網のような、愚鈍な「お上」の意志を実現する作業を遂行できる。

それはまるで、酩酊しながら生きているようなものだ。子どもにも同じように、机の上で適切なタイミングで顎を振りながら、空想の世界で生きることを望むように。テストという名のパターンマッチ、天道虫の画像を覚え、指で隠しながら丸をもらい、虫の存在を忘れるように。

我々がもし合意できるものがあるとすれば、それは人類普遍の原理であろう。それは超国家で定めたものとなろう。

我々がもし団結できるものがあるとすれば、それは子どもを幸福にするということだろう。そして幸福の定義は、個人の思い込みではなく、人類普遍の原理に沿うものでしかないだろう。

そのために、知恵を持つものが知恵を持たないものに対して感じる無意識の優越感、与えてやるという傲慢さ、というものが…子どもという用語に多分に含まれているという事を認めなければならない。

それは、すべての知性体に対して権利を認め、ハムスターが世界大統領になるための第一歩となるだろう。