サークル運営と教育論

学校におけるサークルの教育的価値は、「約束された死」にあると思う。
学生は4年で卒業する。だから、いつまでも居座ることができない。そこで、サークルからの卒業という死、確定された死期をもとにしたライフサイクルが生じる。それは、文化継承のサイクルである。
新人は、サークルに興味を示し、勧誘を受けて入部する。かれらは活動を通して活動の具体的内容を学び、年間行事を学び、友人を作る。先輩から教育を受ける。先輩に対して尊敬の感情を持つ。もたない新人もいるだろう。集団活動を通して、似た興味を持つ同士の中での自らの特別性―すなわち、他者との違い―を感じることになる。
新しい新人が入ると、先輩として後輩を教育する必要に迫られる。彼らは、「教える」という学生/生徒/児童生活では得難い経験をすることになる。教育を通して、活動の理解不足に直面したり、新たな視点を得るだろう。教えすぎが自立心を削ぐことや、反抗的な後輩にこそ心理的な保護を手厚くすべきであることを、長期的には学習する。また、新人特有の反発を受けることで、自分にとっての先輩の気持ちを経験的に理解し、彼らとの心理的な距離が近くなるという現象も生じる。あるいは、新人に自らがかつて感じていた矛盾を突かれて困ることもある。
サークルにおける対立点の中心となるのは、企業体においてはコストと品質の問題としてあげられるものと同一のものである。それは、過去の遺産をそのまま使うか、それ以上に磨くかという選択の問題である。
サークルの将来の運営者となる人物は、たいてい、これまでの運営者が行ってきた活動内容の詳細について記した文章を引き継がれる。活動内容やスケジュールの決め方、予算配分を有利に進めるための交渉の仕方から教育の時期、人材選定のポイント、次期運営者の特定とその勧誘方法などが、その内容である。基本的に、運営者は、過去に生じた問題についてはこのマニュアルを読むことで対処できる。
過去の遺産をそのまま使えば、運営自体はとても楽なものになる。活動する学校に在籍する学生の知的レベルは歴史的にそう変わらないものであり、活動内容が一定ならば発生する問題も実は過去に何度も生じているとなり、対処が可能である。先輩-後輩の対立や恋愛問題、サークル破壊者への対処から学生会の方針に対する対処、留年飲酒犯罪への対処・・・もちろん、これらの情報はプライバシーに関わるものであり、一部の運営者にしか伝えられない。また、過去の遺産が遺産の体を成していないことも多い。引き継がれたものが無能だと、引き継ぎ自体を行わなかったり、都合の悪い情報を隠蔽した上でサークルから引退するものである。
過去の遺産では、変化に対応できない。新しい問題に対処することはできないからだ。また、過去の遺産を使って品質を向上させることも難しい。なぜなら、遺産を継承しているのは一部の運営者であり、活動メンバにそれを伝えるコストはとても高いものになるからだ。遺産は文章だけでなく、運営の経験によっても受け継がれる。過去の遺産を部下にすべて開示すると、経験したものでなければ理解できない内容に触れさせることになる。結局、部下に疑心暗鬼を発生させる結果に終わるのだ。
活動を最低限にこなして、サークルで出来た友達と遊びたいという立場。活動の品質を上げること、改善内容を部下に引き継ぐことで長期的な発展を目指す立場。新人であればあるほど、あるいは、メンバにサークル活動の経験が少ないほど、前者の立場を採りたがる。後者はいかにも題目じみているからだ。発展って何だよというツッコミを受けることになろう。ただし、どちらの立場も、サークルを構成する人材の質向上という目的では一致する。
サークルにおいて、人材の質が高いとは、そのサークルに有益な活動をしてくれるということである。すなわち、サークル活動に専念してくれる人や、正しい判断を下せる高い知性を持った人、が求められることになる。複数サークルを掛け持ちする人や、バイトに忙しい人などは敬遠されるし(エネルギッシュな人が多いので、一律に否定することはできない)、自己主張が強すぎたり人物が濃くて一見さんが引きそうな人についても活動すればする程逆効果となるので表舞台に出したくないとなる。活動に必要なポスト分は有能な人材を配置しておかなければ、組織が縮小するのである。一旦縮小をはじめれば、活動の魅力が無くなり、人が集まらなくなり、というスパイラルに陥る。最終的には他のサークルにメンバーが移動し、解散となる。継承されてきた文化についても他のサークルではまったく使えない知識となり、棄てられる。これにて一つのサークルの歴史が終焉する。
サークルを構成する人材の品質はどのように向上できるのか。重要なことは、サークル活動の活動領域は、人が多い年も少ない年もほぼ一定であるということである。それゆえ、使えるリソース(可処分時間)が多いことが活動の品質向上に直結することになる。サークル活動(それは単なる目に見える活動ではなく、サークルにおける日常生活そのもの)に対する魅力が高ければ、多くの新人の可処分時間を受け取ることが可能になり、それゆえ、満足できる品質の活動が低コストでできる。余ったリソースで遊ぶなり、新規分野に参入するなり、さらなる品質向上に取り組むとなる。サークルの魅力が高まれば、参加したいと思う人数も多くなり、人材の買い手市場になる。買い手市場になれば、やる気と能力の高い人材を選んで文化継承を行い、さらに品質の向上を、とできる。このポジティブループが形成されると、強豪サークルとなるわけだが、ある一定以上の規模になれば管理コストが指数的に増大して破綻することも歴史が示している。
楽しみたいという価値観と、良いものを作りたいという価値観の衝突、その中で同じ目標に向かって進む中で得られる同僚との交流は、サークル活動の中で得られるもっとも貴重なものである。なぜなら、その友情は、サークルから死した後も残るからだ。そして、先輩として遺すことのできる唯一の財産は、後輩同士に永い友情を作らせる、日々のたゆまぬ努力なのだと理解するだろう。それが歴史そのものなのだ。歴史に対する敬意は、ここから生まれる。
サークルが企業体と比較すると、企業体は生業として活動を行っていることが異なる。これより、品質に対する要求は高くなる。また、コストと納期という制約がサークルに対して厳しいものになる。さらに、各参加者のモチベーションもサークルとは異なる。生業ゆえ嫌になっても続けられる、生業ゆえリスクが採りにくく、現状維持を求めたがるなどである。サークル活動はその成果物に現金/生活が伴わないゆえ、人員の交流という領域に専念できるといえよう*1
サークルはNPOと比較すると、構成人員の流動性がまず異なる。構成人員が学生ゆえ期間の決まった(比較的短い)流入と流出を伴う。これより活動や引継の作業が単純化される。また、学校内の狭い社会とだけ関わり合うことも違いとなる。渉外に時間を割く必要が少なく、社会から求められることもほぼない(校内法規遵守くらい)。これより、人員の交流という領域に専念できる。
サークルを学校組織/一般の稽古事と比較すると、文化継承の主体が学生であることが異なる。目的も異なる。一般の教育組織は、その伝達内容を得ることが目的であるが、サークル活動にとって、活動内容は学生同士の交流と文化継承行為の練習を行うための、いわば餌である。教育組織に対しては金銭を支払うことが対価となるが、サークル活動においてはその活動を引き継ぎ、主催することが対価となる(もちろんここで、活動内容のおいしいところだけいただくフリーライダーは存在するし、その対処も考慮されることが一般的である)。
サークル活動は、一面では、活動対象となる学生の可処分時間を奪い合う戦いである。ライバルは、他のサークルのほか、クラスメイトの繋がり、カルト宗教組織、ネットゲームやパチンコ、アルバイトや自主ゼミ、学校の厳しいカリキュラムや一般の娯楽である。
サークル活動は、以下の流れで構成員を効率的に集め育てる。
新入学生が求める学生生活の攻略方法や、友人/恋人との出会いを最初の餌として、組織に誘う。必死にメリットを強調し、宗教っぽいイメージを払拭し(90年代後半はこれを拭うだけでも大変だったようだ)、イケメンを表に出し、恩を売って良心に訴えかける。活動に参加した新人の情報を収集し、分析し、布石を打つ。何度も活動に参加させ、日常をともにし、親近感を植え付ける。サークル内での人間関係を作らせるため、様々な方法で(それも自然な形で)交流をし向ける。個人の嗜好や能力の多寡を見きわめ、重点的に教育をはじめる。ある時期になるとロックインの儀式を行い、新人としての扱いからサークルの構成員の一人として扱うようになる。各個人に最適なポストを与え(あくまでも自分から選ばせるよう、あらかじめ選択肢を狭めておく)、活動の裏方を体験させる。この時期からイケメンでない人も技術者としてOJTに関わるようになり、後輩から尊敬を受け始めるようになる。最低限伝えることだけ伝えて、自分たちで小さな(けれど彼らには手に負えない)活動を行わせ、失敗させて自信を喪失させた上で手助けを行うなんていう小技を使うこともある。
新人時代の価値観を変えることも行う。品質を向上させるための自己犠牲も将来への投資として肯定してみせる。反抗心を見せるメンバーに対しては人材の質向上という共通の利害を持ち出して説得する。ただし、完全に趣旨替えはさせない。いくつかの理由がある。反抗心を見せるメンバーの存在は、同じ価値観を持つ新人と同調しやすく、ある時期の新人に対して訴求力が高い。また、運営側の論理を突き詰めると過度に自己犠牲を求めるなど反社会性を帯びるため、その監視役にさせるという利用をおこなう。そして何より、価値観の異なる同期のメンバ同士が対立し、それを乗り越えることで深い繋がりを得ることが経験上多いのだ。
次世代の構成員が一人前になったとき、先輩の存在意義は消滅する。彼らは死を意識し、経験を伝えることを求めはじめる。経験を抽象化して、遺産として引き継ぐようになる。自分の持つ知識は、自分とその引き継ぎ先の後輩、そしてまだ見ぬ未来世代以外にしか持てないもので、それゆえ、自分が伝えなければ「終わってしまう」と感じるのだ。その勿体なさが、罪悪感に近い何かが言葉を紡ぎ、遺す原動力となる。

  1. 将来ラクになるために、いろんな改善を行いたい。そのために今努力する。
  2. 自分が行ってきた改善が改悪になったこともある。正しい判断をしなければ多くの構成員に迷惑がかかる。
  3. 将来のことを読み違えたくなかった。せめて自分以外の次世代の人にはこの経験を伝えて、正しい判断を行うようにして欲しい。

そして最終的には、構成員は「自分がよいと感じたことを次世代にも同じ経験をして欲しい。自分が嫌だと思うことを次世代には伝えたくない。そして、次世代の人には同じ結論に達して欲しい」と考えるようになる。この成長と変化も、また、仕組まれているのである。
だから、学校におけるサークルの教育的価値は、「約束された死」にあるのだ。

*1:内部競争を行なっている企業体の中では、同僚や後輩は自分の地位を脅かす存在になるので、教育、特に人間の暗黒面を伝える教育はなされないというのもある