内田樹の本

労働がどーとか。結構面白かったので過去ログあさりをしてみる。
http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0006.html
の6月7日。

すると、このお母さんは、驚くべき(でもないか)事実をご教示下さった。

お母さんがおっしゃるには、就学年齢に達する前に「自分の身を守るだけの技術を身につけさせたい」というのである。

六歳で小学校に入ると、そこで子どもを待ち受けているのは「戦場」であり「カオス」であって、そこでは自分で自分を守り抜く以外に、身体も、プライドも、秩序も、誰も守ってくれない、ということをこのお母さんたちは「事実」として受けれているのである。

(中略)

知的にも制度的にも崩壊過程にある学校で、子どもたちを待ち受けている暴力とアナーキーはただちに直面せざるをえないリアルな現実である。

誰にも頼らず自分の身を守る能力のほうが、成績がどうこうとかスポーツがどうこうということよりもずっと切実に必要となっているのだ。

ワイルドな時代だ。

とか拾ってみるテスト。どんどん読み進めていくか。

http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0009.html



それは「カウントダウン」される時間のかけがえのなさが身にしみて感じられる、ということである。

私たちはつい時間はいくらでもあり、過ちはいくらでも取り返しがつくと思っている。

そのせいで、私たちはつい言わなくてもいいことをいい、しなくてもいいことをして、人を傷つけ、自分を傷つける。

これが、余生あとわずかの人に対しては、人間ずいぶん優しくなれるものである。

そうでしょ?死の床にいる人間に向かって「おまえさ、生き方変えろよ、いい死に方しねえぞ」とか説教するバカいないでしょ?

これは使えるぞ!

http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0010.html

の10月30日。

というのも、師弟関係というのは弟子がある種の「修辞的誇張」を以てしか語ることのできない関係のことだからである。

逆に言えば、「修辞的誇張」を伴わないような関係は、師弟関係ではない。

(中略)

「客観性を犠牲にすることなしには触れることのできない知見がある。私たちは師に仕えてそれを学ぶのである。」

弟子を取ることで調子に乗った言説ができるってのはあるよね。未分化なアイデアを長期間えらそうに語りかけて否定されない、ってことで、新しいものが形作られたりもする。

そう思うと、弟子だった人たちには、感謝の念尽きません。ありがとー