英雄体験

すげえ努力して、自分のこれまでの限界を超えるというか、思う通りに指が動くというかそういう体験っていうのが自分自身に対する肯定意識に影響すると考えている。
男性なので、女性に対する劣等感、生物としての美しさを持たない自分自身への劣等感というものを、惚れた弱みとして感じ続けるわけですよ。それを乗り越えることが英雄体験なのかなと。まとまってないけど。
問題は英雄体験として自分を納得させられるものは何かってことで、究極的に言えば、狩りをやって食事を家族に与えられること、金になるぞと。でも学生とか、社会人始まってばかりじゃ、ねえ。どうしてもこの努力、どこに向かっているのか分からない!とかこんな給料貰えるだけ働いてないんだけど、的な。
ハードルをどこまで高く設定するかによるぞと。それは業と言える。自分をどこまで追い詰めれば騙せるかという。足が速くてクラスの皆からちやほや、なのか、クラス内の政治力、なのか、スポーツで活躍でくるポテンシャルか、チームが全国大会に出ることなのか、中学高校大学に受かることか、バイトで金が稼げることか、彼女と花火で手を繋ぎキスか、二十歳以前に童貞を捨てることか、就職偏差値60以上の会社に内定を貰うことか、給料やボーナスを貰うことか、出世することか、プロジェクトを成功させることか、起業することか、投資により経済的独立を達成することか。人を愛するという実感を得ることか。何か。
分からない。ただ生きること、生き延びること以上のものはなくて、熱くなれること、夢中になることそのものに憧れを持つというか。何となくならば何とでも生きていけるけれど、それでもあえて好きなもののためにも生きていたいというか。
何が言いたいのかというと、男子児童、学生諸君は金(や生活)から切り離されているゆえに客観的な自信を得ることが難しいのだけれど、例えば所属している組織のために与えている何かがあって、周りの皆はそれに結構満足していて、組織全体として、野球ならば例えば地方予選3回戦出場ぐらい出来ていれば、その能力と金を稼ぐことは地続きなのだから、自信を持っていいんじゃないかということ。組織として(個人でもいいけどさ)何か外部に対して行動するってことは、金を得ることとそう変わらない。社会は分業しているから。英雄体験ってのも、組織=社会に対して自らの能力を与える、回路を持つこと、立ち位置を持つことに過ぎない。例えば、美味しいスイーツが近所にありますって、回覧板に書いて、喜んでくれる人がいるなら、それも能力だと。